自民党日本・ミャンマー友好議員連盟(会長 逢沢一郎衆議院議員)所属の衆・参国会議員11人で7月8日〜11日ミャンマーを訪問し、ミャンマーの国会議員や外務大臣ら各閣僚等と意見交換してまいりました。
ミャンマーは、1948年に英国から独立した後、議会制民主主義を採用しましたが、政党間の対立や少数民族問題等により内政が混乱したため、1962年に国軍のクーデターによりネ・ウィン政権が発足、一党独裁体制が開始されました。
1988年、極度の経済状況の悪化と一党独裁体制に対する不満等から全国規模の反政府・民主化運動が発生し、その結果、同年9月に国軍がクーデターにより政権を掌握しました。
軍事政権は1990年に複数政党制による総選挙を実施しましたが、総選挙では、アウン・サン・スー・チー氏率いる国民民主連盟(NLD)が大勝しました。
これに対し、軍事政権は議会を招集せず、民政移管のためには憲法が必要であるとして、1993年より、憲法の基本原則を審議する国民会議を開催しました。2008年には国民会議を経て起草された新憲法草案採択のための国民投票を実施し、9割以上の賛成で新憲法案が承認されました。
2010年11月、軍事政権は総選挙を実施し、軍事政権が組織した政党である連邦連帯開発党(USDP)が圧勝しましたが、NLDは選挙には参加しませんでした。その直後に2003年から自宅軟禁措置をとっていたアウン・サン・スー・チー氏が解放されました。
また、2011年1月、連邦議会を招集し、テイン・セイン大統領が選出され、同年3月、軍事政権を解散してテイン・セイン大統領が率いる文民政権を樹立し、民政移管が実現しました。
テイン・セイン大統領は、アウン・サン・スー・チー氏が率いるNLDの国政参加を実現すべく政党登録法を改正し、2012年4月の補欠選挙でNLDの選挙参加が実現し、NLDの候補者が全45議席中43議席を獲得しました。
テイン・セイン大統領は、海外在住の民主化活動家の帰国受入れ、政治犯の釈放、報道の事前検閲制度の廃止などを実現し、ミャンマーの民主化は大きな前進を見せています。
日本としては、ミャンマーのこのような取組を支援しています。又、ミャンマーは有望な生産拠点、市場として日本企業の関心も高く、両国の間に互恵的な経済関係を強化することが課題になっています。
私達自民党日本・ミャンマー友好議員連盟一行は7月8日午後成田を出発し、夕刻ヤンゴンに到着しました。
ヤンゴンは人口700万人の古い町で市内中心部は交通渋滞が激しくなっています。走っている自動車の大部分は日本の中古車で、車体に「○○建設」などと書いてある車をそのまま使っている人も多く、びっくりしました。
その日の夜、キン・シュエ上院議員主催の夕食会がありました。キン・シュエ議員はミャンマー日本友好協会会長代行を務めています。
次の日、7月9日は朝早くヤンゴンを出発し、飛行機でミャンマーの首都ネピドーに向いました。
ネピドーは人口93万人の新しい町です。2005年11月、ミャンマー政府は首都をヤンゴンからピンマナ県に移転する旨発表し、2006年3月頃までに政府機関は概ね移転を終了し、移転先はネピドー(「王都」の意)と命名されました。
ネピドーは林と草原の中に国会議事堂や政府の役所が立ち並ぶ政治と行政の町です。メインストリートは片側10車線、両側で20車線もある飛行機滑走路のような道路で本当に驚きました。
国会議事堂といっても各委員会ごとに大きな議事堂を持っており、合わせると日本の国会議事堂とは比べようもなく広大なものになっています。
政府の役所も外務省、財務省など役所ごとに立派な建物が建っており、しかも各役所は治安上の観点からそれぞれ自動車で20分位走らないと行けないぐらい離して建てられています。
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上の2枚の写真はミャンマーの国会議事堂 (このような建物が委員会ごとに存在しており、国会議事堂全体としては広大なものになっている) |
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7月9日の午前中は一行でミャンマーの国会を視察しました。ちょうど上・下両院の合同会議が行われている最中でした。やじもなく静かな雰囲気の中で議事が進行しているようでしたが、本会議場の前面の両端に大きなディスプレイがあり、そこに表やグラフを映し出しながら演説をしており、日本の国会は随分遅れていると感じました。
その後、一行はキン・アウン・ミン上院議長と面談しました。上院議長は、日本のミャンマーに対するODAに感謝の意を表し、日本の経済界がミャンマーに対する投資意欲を強く持っていることに歓迎の意を表しました。
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上・下両院合同会議場の傍聴席の入口で |
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国会議事堂にはミャンマーの各民族の人形が展示されている |
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7月9日の午後は1時間半にわたって日本とミャンマーの国会議員の交流会議を開催しました。
ミャンマー側からは「ミャンマーの国民全てに民主主義とは何かを理解してもらう必要がある。日本の戦争直後の民主主義についての日本の文献を読んでいる」との発言がありました。さらに「ミャンマーには現在土地問題がある。日本が土地問題についてどのように解決してきたか勉強している」との発言もあり、ミャンマーの国会議員が日本から様々なことを学ぼうとしている姿勢に心を打たれました。
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上の2枚の写真は日本とミャンマーの国会議員の意見交換会の様子 |
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7月10日は午前・午後ともミャンマー政府の各省を訪問し、大臣以下幹部の方々と意見交換をしました。
朝8時半からソー・テイン大統領府大臣と会談しました。ソー・テイン大臣は「今ミャンマーが必要としているのは技術である。無償資金の援助は期待していない。日本の企業が投資をしてくれれば、ミャンマーの技術が向上し、雇用を創出することもできる」と述べ、日本企業の積極的投資に強い期待を示しました。
その後、ぺー・テッ・キン保健大臣と会談しました。ぺー・テッ・キン大臣はヤンゴン医科大学を卒業後、国内各地の医療機関に勤務し、ヤンゴン第一医科大学学長等を歴任した方で、日本の医療技術、医療制度に強い関心を持っていました。
7月10日の午後は、ワナ・マウン・ルイン外務大臣、ウィン・シェイン財務大臣、コー・コー・ウー科学技術大臣、ミン・フライン農業灌漑大臣をはじめそれぞれの省の幹部の方々と次々に意見交換いたしました。
ワナ・マウン・ルイン外務大臣は、ミャンマーが本年ASEAN議長国に就任したこともあり、地域の国々と協力して平和的な共存を図る強い意思を示されました。特に南シナ海の問題を平和的に解決するために優先的に取り組む決意を表明しました。
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ソー・テイン大統領府大臣(中央)と 左が中川雅治、右は松山政司参議院議員
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7月11日は、ヤンゴンに戻り、午後に少数民族政党の党首らとの懇談会を開きました。ミャンマーの総人口は約6400万人ですが、その70%がビルマ族、30%が少数民族です。少数民族といっても135の民族に分かれており、現在、全ての少数民族武装組織との間で全国規模の停戦合意の署名に向けた努力が続けられています。
少数民族政党の党首ら幹部の方々約50名がヤンゴンのパークロイヤルホテルの会議室に集まり、我々日本の国会議員との懇談会が行われたのですが、このような会議は初めてのことなので、ミャンマーのマスコミも大勢取材に来ていました。
各少数民族政党の代表者から「我々の生活水準は低い。日本からの援助を、ミャンマーの中央政府を通さず、直接我々の州に行っていただけるとありがたい」との発言が出されました。そのような援助のやり方は現実には難しいと考えますが、ミャンマーの少数民族の状況がよく理解でき、有意義な懇談会となりました。
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上の2枚の写真は日本の国会議員とミャンマーの少数民族政党の党首らとの懇談会の様子 |
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7月11日の夜、ヤンゴンを出発し、翌日の朝成田に着き、短い期間でしたが、充実したミャンマー訪問を終えました。
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