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国後島の地図 |
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◆終戦とソ連の占領
第2次世界大戦で日本は敗戦しました。1945年(昭和20年)8月14日ポツダム宣言を受諾し、降伏の意図を明確に表明しました。
その2日前の8月12日から、ソ連軍は千島列島への攻撃を開始していました。そして9月5日までに択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の全てを占領してしまったのです。ソ連軍の占領下に置かれた日本人島民は、8月当時約1万7千人いました。自力で島を脱出したり、強制的に引き上げを余儀なくされました。
そして、ソ連は1946年(昭和21年)に一方的に北方領土をソ連領に組み入れました。強引な手法は国際社会でも批判する向きもありましたが、敗戦国である日本の発言権などなきに等しいものでした。
現在まで北方四島の帰属を巡って、日露両国政府間で外交交渉が行われています。日本政府は一貫して「北方四島は我が国固有の領土であり、これらの島々の帰属の問題を解決して両国間で平和条約を締結したい」と考えています。しかし、北方四島は戦後から現在まで、日本人が住めない島になっています。ロシアが実効支配をしている状況が続いています。竹島や尖閣諸島をめぐる問題とともに、日本が抱えている領土に係わる大きな問題です。
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国後島の爺爺岳(ちゃちゃだけ) 島のシンボルとなっている美しい火山 <北方対策本部HPより> |
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国後島の名所、蝋燭岩(ろうそくいわ) 砂浜からそびえ立つ姿から「悪魔の指」と言われ、観光名所となっている奇岩 <北方対策本部HPより> |
◆旧島民の苦労と解決への歩み
私は、今回の訪問の中で、今日まで故郷に一度も帰ることができない大勢の方々の強い思いや願いを直に聞かせていただきました。一緒に行った旧島民の方の中には、終戦後にソ連軍の監視の目を潜って故郷の島々を脱出した方、あるいは島に残り昭和22年から23年にかけて劣悪な環境の樺太経由の引き上げを余儀なくされた方もいらっしゃり、当時の状況などを生々しく聞かせていただいたのです。
終戦当時、北方四島に住んでおられた日本人約1万7千人のうち、現在生存している方は約7400人です。平均年齢は77・8歳になりました。旧島民の方々のお話を聞いて、私は改めて北方領土を取り戻さなければならないという強い気持ちにさせられました。
現在、ビザなし交流が行われています。北方領土は日本の領土であるので、日本人が訪問するのにビザを取らなければいけないというのは不条理な話です。日本政府としては絶対に認められません。しかし、現実には、北方領土は現在までロシアが実効支配をしていて、ロシア人が居住して街をつくっています。
北方四島に先祖代々のお墓がある方が沢山いますが、日ソ両国間の政治問題で旧島民の方の墓参りを妨げるのは人道的に如何なものかという問題が生じました。ソ連としては一般的なビザなし訪問は認められませんが、政治問題を越えて人道的見地から、墓参りは例外的に認めるべきだということになり、1990年(平成2年)に旧島民等の墓参りが北方四島全ての島において認められるようになりました。
それから1991年(平成3年)に海部総理とゴルバチョフ大統領との間で交渉が行われ、1992年(平成4年)以降ビザなしで行われる北方四島交流事業という枠組みが作られました。
領土問題解決に向けた好ましい環境整備を目指し、交流を通じて日本人に対する理解や親近感を深めてもらうと共に、日本の主張を理解してもらうことが目的です。また、逆に在住ロシア人にも日本を訪問してもらい、多くの日本国民が北方領土問題を知り、認識を深めることも重要であると考えられています。今年はちょうどビザなし交流が始まって20年目となります。
北方領土問題は時間も長くなり、これからも瞬時に解決できるわけではありませんので、様々な工夫をし、様々な布石を打ちながら解決を図ろうとする手法の一環です。
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国後島での住民交流会の様子 |
◆とにかく国後島へ上陸
私達は5月14日(土)の朝、根室港を出発しました。当初ビザなし交流に使う予定だった客船に問題が生じ、運航ができなくなってしまいました。
そこで急遽北海道庁の漁業取締り船「北王丸」を使うこととなりました。本来は、前日の13日(金)に出発する予定でしたが、天候が悪くて船が出せません。13日の金曜日というのは、やはり良くない日なのでしょうか。
そして、私達はお昼には国後島の中心地、古釜布(フルカマップ)に到着したのです。
国後島の港は大きな船が着けられる十分な深さがなく、北王丸が無事に港に到着できるかどうか分かりません。そこで、やや沖合で停泊して、ロシア側のはしけに乗り換えて港に到着しました。今までの訪問団も同じ扱いです。
国後島には飛行場もあり、ちょうど拡張工事の最中でした。しかし、ビザなし交流には飛行場は使わせてもらえません。ロシア側がわざと意地悪をしているような印象を受けました。また、入域手続きに大変時間がかかります。毎度のことらしいのですが、なかなかすんなりいきません。
ロシア側は入域手続きに先立って、訪問団員らの放射線量を計測すると事前に言ってきました。東京電力の福島第一原発の放射能漏れ事故を受けた措置ですが、日本側はロシア側の手続きに従えば、北方領土の管轄権を認めることにつながると懸念し、日本側が持参した線量計で計測してその数値を自主申告する形をとりました。
四島側も自分達で用意した線量計で測定していました。それはロシア側の対応であり、我々日本側とは関係のない手続きという認識です。測定の結果、安全が確認され、入域手続きに入り上陸しました。
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根室港を出発する際に関係者の見送りを受ける |
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古釜布港の沖合で日本の船「北王丸」からロシア側が用意した「はしけ」に乗り換えるところ
─ 波が高く危なかった ─ |
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◆第一印象は「ぱっとしない街並み?」
国後島には舗装道路は全くありません。車が走ると土埃がモウモウとなります。しかし、10年前にも国後島にビザなし交流で来た人の話によると「10年前よりは道路が郊外の方を含めてかなり広くなっている」ということでした。
建物は殆どが平屋と二階建てで、ビルは全くありません。これは港湾が整備されていないので、大きな建材や資材を島に持ち込めないのだと考えます。建物は木造で古い物が多く、アパートは外側の木が剥がれていたり、あまり綺麗ではありません。ただ、最近はカラフルな建物も建つようになってきたとのことです。
広い土地の所々にお店、事務所、住宅があるという状態です。国後島にはロシア人6700人が住んでいますが、いわゆる繁華街やにぎやかな商店街はありません。日本の八百屋、魚屋、ブティックのように扉を開けているお店はありません。舗装されていないので埃が凄いからです。ショーウィンドーもありません。扉にお店の名前が書いてあるだけで、外から見ると店舗とはわかりにくいのですが、開けると中がスーパーやコンビニのようなお店がありました。また、ホテルもありません。一応宿泊施設はあるそうですが、日本の民宿のようなところでしょう。全体的に明るさに欠ける街並みと言ってよいでしょう。
私達の訪問団の団長は北方四島交流北海道推進委員会の長尾明宏会長です。私を含め訪問団の代表数名が国後島の行政府と議会を訪ねました。オリガ・ラパンスカヤ・サハリン州行政府代表、ガリーナ・ヴィシュロワ・南クリル地区副議長兼副地区長、ノヴァハトニー・クリル日本センター所長を表敬訪問しました。
東日本大震災のお見舞いをまず言われました。「この度の悲劇に対して勇敢に戦い世界に良い例を見せていることに敬意を表します」
そして、ビザなし交流の意義についてロシア側から説明があり、本年は20周年の記念すべき年であり、お互いの信頼、友好、隣人関係が強いものになっていくことへの期待が表明されました。また、現在この地域がどんどん社会的発展を遂げているという説明がありました。後に私達も視察するのですが、港の埠頭、道路、幼稚園、学校、住宅などについて、ロシア政府の主導のもとに急速な整備を行っているという説明もありました。しかし、領土問題に関する言及は一言もありませんでした。
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古釜布港の沖合から見た国後島の様子 |
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国後島のアパートの様子 |
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国後島の建物と道路の様子 |
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国後島の行政府と議会の建物 |
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右からガリーナ・ヴィシュロワ・南クリル地区副議長兼副地区長 オリガ・ラパンスカヤ・サハリン州行政府代表 ノヴォハトニー・クリル日本センター所長 |
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国後島の行政府の建物の前でビザなし訪問団の代表と 国後島行政府、議会の代表者とで記念撮影 |
◆家庭訪問で感じた住民意識
その後、私達はホームヴィジット、つまり家庭訪問をすることになります。46名が10班に分かれて、それぞれ別々の家庭を訪問しました。ご馳走になりながらご家族といろいろなお話をし、交流を深めるのです。
長尾団長、副団長である神忠志根室市議会議員と私の3名で、チェルニコワ・スベトラーナさんのご家庭を訪ねました。チェルニコワ・スベトラーナさんは38歳の経営者で、ご主人のビターリーさんも一緒に迎えてくれました。
アパート自体はみすぼらしい感じがしましたが、中にはいると立派な家具が置かれてあり、システムキッチンなどはすばらしいものでした。
7歳のお嬢様は大変可愛く、カチューシャを歌ってくれたり、習っているバレーを披露してくれたり、家族あげての歓迎を受けました。
「国後島に住むロシア人の間では、北方領土問題が話題になることはあるのですか」という質問をしてみました。それに対しては、「領土問題については国後島の住人達でも時折話題になります」とのことでした。しかし、「領土問題があるからこそ、こうしてビザなし交流があり、日本人の生活や今までの苦労を知ることができて感動した」と言います。隣人として交流できるのも領土問題があるからこそと認識している、という考えです。
ここは元々日本の領土であるという認識や、返還交渉に関しての考え方などについての言及は一切ありませんでした。交渉は自分達とは別の所の話であり、政府間の話だということも言われました。
過去に色丹島にビザなし交流で行った同僚の参議院議員から、「ホームヴィジットをした家庭では領土問題は全く関心がない。完全に自分達の島だと思っている。返す島という認識が皆無なのでビックリした」と私は聞いていましたので、なるほどなあと思いました。私が訪問した家庭の方の認識レベルはもう少し高い感じはしました。
また、別の班が訪問した家庭では、「日本人をソ連軍が追い出して申し訳ない」と言われた方もいたそうです。
一方、「日本人だって過去にアイヌを追い出したじゃないか」と強調し、その経緯を自分で調べているという地元紙の記者もいました。
全体的には、島のロシア人の方もそれなりの現状認識は持っているという感じは受けました。しかし、「本来これは日本の領土であり、不法占拠してるんだ」という考えを持っている人は全くいないと感じました。
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ホームヴィジットをしたチェルニコワ・スベトラーナさん一家と |
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チェルニコワ・スベトラーナさんが作ったおいしいロシア料理 |
◆有名なあの“ムネオハウス”に宿泊
この日は「友好の家」に宿泊しました。鈴木宗男氏の政治的パワーで建設したと言われている通称“ムネオハウス”です。友好の家はホテルとは全く違っていました。各部屋にベッドが置いてあるだけで、鍵もかかりません。木の扉があって押すだけの簡易な造りです。ただし、掃除はきちんとされています。
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友好の家(通称ムネオハウス) |
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